コンブにラッコ。

今日も波間から 世界を眺める 

原点に還り、ふたたび始める。

tree

 

この世に生まれて最初に見たものは何だったのだろう。子供の視力が大人と同じくらいになるのは5歳頃と言われているらしいので、それまではまだ、少しぼんやりした世界の中で生きていることになる。

 

生まれて最初に見たものは覚えていないが、記憶の中での最初の風景はある。それはどこかの神社の参道の、とても大きな樹の映像だ。広くて長い一本道が通っていた。その道を両側から囲むように、大きな樹々が並んでいた。目の前には、その内の一本がまっすぐに生えていて、ワタシはそれを上の方まで見上げ、なんて大きな樹なんだろう、と思った。

 

よく探せばもっと古い記憶もあるはずだ。しかし、自分が「見た」ものに対して「何かを感じた、思った」という意味で、はっきり記憶に残っているのはこの時の風景である。記憶はしばしば改ざんされるので、もしかしたらこの記憶も本物ではないかもしれない。それでも自分としては、とても印象的な出来事だった。

 

雰囲気から推測するに、おそらく3歳頃の出来事ではなかろうか。地面が近く、道は広く、樹はとても大きかった。今その場所に行ったら、神社狭っ、樹小さっ、などと思ってしまいそうだ。たまに家の中のネコになった自分を想像してみるが、子供のワタシと大人のワタシでは、それくらいの感覚の差はあるに違いない。

 

ところで意識はいつ頃からあるのだろう。生まれる前の記憶がある人もいると聞くので、すでに胎内で意識があるのかもしれない。もちろんお腹の中で感じていることをその場で言語化している訳ではないと思うが、後々、そこで感じたものに言葉を付けるならこうだった、ということなのだろう。

 

ラッコの最初の記憶も、その時に「この樹、大きいな」と言語化していたかどうかは分からない。後で振り返った時に付いた言葉なのかもしれない。ただ、樹を見た時にふわっと湧いた感動は、言葉にしなくても存在しているものだった。

 

heart

 

そもそも、人間、そして全ての存在は、肉体なしでも意識として存在しているのか、肉体としてのみ存在しているのか。肉体を持っている間だけ意識があり、死を迎えると無に帰する。そうかもしれない。肉体を持つ前から、すでに意識体として存在している。そうかもしれない。二つの考え方を並べてみても、どちらもそのようでありそうだ。

 

本来、ラッコは割と素直な性格で、説得力のありそうな説を知ると、なんだかそれが正解のような気がしてしまう。が、確かな回答をどこに求めればいいのか分からないので、これはまだ自分の中での保留案件である。希望的観測で言えば、肉体がなくても意識として存在しているような感じはする。

 

人間が光や色として認識しているものは、ごく限られた波長のものであるらしい。とすると、目の前にある「何もない」と思っている空間は、実はまだ見ぬ何かでいっぱいだということになる。宇宙にも、まだ確認されていない物質が沢山あると聞くし、そうなると「見えない世界」の方が広いのでないか、という気がしてくるのだ。

 

とても曖昧なこの世界の中で、ラッコは何をもって物事を判断すればいいのか。子供の頃、神社の樹を見て「わぁ」と思った時、胸の辺りに感動の広がりがあった。ドキドキする時も、ワクワクする時も、ビックリした時も、不愉快な時も、いつも胸に何かを感じる。胸の感覚と感情はいつもリンクしている。

 

だから何かを判断する時は、この胸に受ける「感じ」をできるだけ大事にしている。そこをないがしろにすると、なんだか胸が痛むし、悔いが残る。日々気持ちよく過ごすためにも、自分の胸の「感じ」を大事にすることにしている。

 

感じた事を言葉にする。捉えた世界を言葉にする。それも、頭からではなく胸の辺りからスタートしたい。大人になった今だからこそ、そうして生きていけたらいいと思う。時々は最初の記憶に立ち戻って、その感覚を忘れずに過ごしていきたい。

 

本日の一品 『 天恵(グレース)の花びら 』

感想を言葉にするのが難しい。光を浴びるような気持ちで開く本。一度読んだら、時間を空けてまた読んでみる。ラッコにとっては、心洗われるような一冊。