コンブにラッコ。

今日も波間から 世界を眺める 

肩の力を抜いて生きる。

omocha

 

今考えてみても本当に似合わないのだが、小さい頃、クラシックバレエを習っていた。ラッコがクラシックバレエ。字面だけでもおかしいが、この字面と同じくらいおかしな事だったと思っていただきたい。

 

肩が上がってるよ、と、バレエの先生によく注意された。この「肩が上がってる」は、ポーズとして肩を上げすぎているのではなかった。緊張で両肩がすぼまった結果、肩が上がっていると言われていたのだ。緊張することを「あがる」と言うが、おそらく肩があがることを指しているのではないだろう。ラッコは精神的にあがった上、見た目にもあがっていたという訳だ。

 

緊張して上手くいったことはひとつもない。なぜかよく緊張する子供だったので、あちらこちらで下手をしてガッカリすることが多かった。本人はなんでもいたってマジメにやっているのだが、どうも周りの人たちのように、無邪気にハツラツと行動することができなかった。

 

一方で、自分の好きなことになると周囲の状況をすっかり忘れてしまった。バレエのレッスンでも、壁に飾られた発表会の写真があんまりステキだったのでじっと見入っていたら、レッスン中であることをすっかり忘れていたり、昆虫図鑑に見とれていたら、給食当番であることをすっかり忘れていたり、教科書に載っているパン工場の写真に食いついていたら、授業中であることを…まあ、こんな感じである。

 

それにしても、なぜこう、やたら「見とれる」子供だったのだろう。何かをしている時ではなくて、座ってじっと見ている時に、時を忘れる。けれどその間は周囲も緊張も忘れているので、現実世界での息抜きみたいなものだったのだろうか。

 

基本的に、物事の速さについていけないタチで、幼稚園に入った瞬間から、精神的に置いてけぼりを食らっていた。適応能力の問題だったのか分からないが、自分では、ひとつひとつの物事に、いちいち思考を持ち込んでいることが原因ではないかと推測している。

 

これはなぜこうなのだろう、あれはなぜこうなのだろう、と、つい立ち止まって考えてしまう。目の前の経験にまっすぐにフォーカスしている人や、経験そのものになっている人たちからは、どうやっても遅れてしまう在り方だろう。

 

初めて幼稚園の門をくぐり、その門が後ろで閉まるのを見た時、自分はなぜここにいなければならないのだろうという疑問が湧いた。そして、見たことのないたくさんの個性に囲まれて、自分と周囲という感覚がはっきりと生まれた。周りの子供たちの溢れんばかりのエネルギーに、どうにも最初から圧倒されていた。

 

自分とは違う人たち。肌で感じるそのエネルギーの違いに、とても緊張していたのだと思う。みんながこの中でどうやってリラックスし、その人らしくいられるのか、皆目見当も付かなかった。肩があがっていたかどうかは知らないが、ラッコは人の中であがっていたのだった。

 

futaba

 

内面の「あがり」はあまり変わらなかったが、時と共に自分なりの世渡り術を覚えた。しかしその術はあまり役には立たなかった。なぜならそれは、あくまで「当たり障りがない」と思って作り上げた表面的なキャラクターであり、一生そのままで生きるのは不可能だったからだ。

 

薄い上塗りだけ立派にしても、剥げてしまえば脆い器みたいなものである。しかも本来の性格とも一致していないのだから、その在り方が長続きする筈もなかった。社会と呼ばれる場所で過ごすうちに、表面と中身はどんどん遠ざかり、ついに互いが見えないほどになった。

 

表面のワタシは、本来のワタシを知らない。本来のワタシである筈のワタシは、自分がどんな人間なのか忘れている。完全なる自分迷子である。思えば、幼稚園で自他の意識が芽生えた頃にはもうパニックしていた訳で、周りに気を取られ、自分から離れてウロウロした結果、帰るべき場所を完全に見失ったのだ。

 

今は、帰るべき場所に向かって歩いている、つもりである。歩いている、というよりは、表層を削ったり、不要なものを片付けたり、それはどこか部屋の掃除に似ている。長くそのままだった押入れを開けて、タンスを開けて、引き出しを開けて、ファイルを捨てて、本を捨てて、衣類を捨てて、家具そのものを捨てて、、

 

ここ数年は片付け三昧の日々だった。他に何をしたかよく覚えていない。山ほど物を減らしたけれど、その間に増えたものも確かにある。平穏な日常。ネコとの生活。要らないものを片付けたら、大切なものが分かるようになった。

 

肩の力を抜いて生きる。そうできたらいい。けっこう広い肩なので、上がっていると目立ってしょうがない。リラックスして生きるに越したことはないと今は思っている。そして、本来のラッコはそういう生き方ができるとどこかで分かっている。

 

本日の一品 『 超スピリチュアル次元 ドリームタイムからのさとし 』

ウィリアム・レーネンさんの本では、よく客観性について触れられている。自分への客観性、他人への客観性。ラッコの日本人的な感覚からすると、実践に勇気の要る、厳しい在り方に思えるが、自分なりに取り入れることができればと、参考にさせてもらっている。