コンブにラッコ。

今日も波間から 世界を眺める 

「ワタシとは何か」の扉を叩く

hatena

 

ワタシとは何か。確かに「ここ」に存在するけれど、何者かは分からない自分。ラッコという名で呼んでみても、本当は名もなき者のように感じている自分。

 

瞬く星を見る。伸びたネコを見る。過ぎ行く人を見る。何かを見てはいるものの、音を聞いてはいるものの、モノに触れてはいるものの、臭いを嗅いではいるものの、それを「している」ワタシは誰なのか。ワタシはここで何をしているのか。ワタシはなぜここにいるのか。

 

ネコは自分の存在に対して「なぜ」などと疑問に思っていないように見える。彼らは今という瞬間瞬間にフォーカスして動いているように見える。だから本当は「なぜ」と考える必要さえないのかもしれない。その方が健全で迷いなく生きられるようにも思える。

 

ワタシとは何か。考えてみても分からない。それはその答えが「考え」という小さな括りの中にはないからだろう。ワタシの頭のちっぽけな、道順の決まった思考回路の中からは、このような問いへの答えはおそらく出てこない。この人生で覚えたほとんどのことは、誰かやどこかからの借り物に過ぎない。

 

ワタシはヒトのことが分かるような錯覚を起こす。この世界のことが分かるような錯覚を起こす。それは、現実を現実として、ヒトをヒトとして捉えるために、この頭もシッポもないグニャグニャの世界を、どうにかカタチにして捉えるために、ある程度必要な感覚なのかもしれない。

 

(まだ実際に確かめたことはないが)地球が丸いとすれば、ワタシはたこ焼きに刺さった爪楊枝のように、その球体の上に立っていることになる。もし赤道に立ったら、地球に対して真横から突き刺さっているのだ。これだけでもう正気の沙汰ではない。当たり前の顔をして地球に立っていることさえ出来ない。

 

南極でジャンプしても地球からは落ちない。引力が働いているというが、そもそも引力とは何なのか。なぜそんな力があるのか。地球の自転や公転、重力や質量を持ち出してみても(ワタシはよく知らないが)、なぜそれがあるの、なぜそれがあるのと、子供のように突き詰めていくと、不思議だね、という一言で終わるような気がする。

 

uchu

 

ラッコは今日、いつものように昼ご飯を食べた。ローテーブルの上に、パンと目玉焼き、チーズに麦茶。変わらない日常、当たり前の景色。しかしカメラのように引いていくと、島国が海に浮かび、いくつもの大陸が浮かび、丸い地球が宇宙に浮かび、太陽系が浮かび、銀河系が浮かび... 広大な宇宙の中に浮かぶ、小さな星の中での、ラッコの昼ご飯。全然当たり前ではない。

 

地球の自転は秒速約460m、公転は秒速約30kmなのだそうだ。当然ながら「転」は「まわる」という意味なので、地球は今もビュンビュン自転しながら、太陽の周りをビュンビュン回っている。その太陽もまたビュンビュン公転していて、とイメージすると、ワタシは飛行機の上か何かで昼ご飯を食べているのか?という気持ちになる。それにしてはあまり風を感じないけれども。

 

科学的説明以外の話として、なぜこうなっているのやら、自分の置かれている環境の意味が全く分からない。たとえ、これが答えだ、と試しに言ってみても、誰が「そうですよ」と返事をくれるだろう。誰が本当の答えを知っているだろう。

 

答えのない日常を、地球と共に旅する。ロケットで飛んで行かなくても、ワタシは今この瞬間も、広い宇宙の中を旅しているらしい。ラッコという一人のキャラクターでいる間に、どれだけのことを知ることができるだろう。答えのない問いであるとしても、自分なりの解に近いものを、見出すことが出来るだろうか。

 

ワタシはここにいる。何なのかと訊かれると分からない。ただ存在していて、自分という視点から外の世界を眺め、なにかを感じ、思ったり考えたりしている。自分と人が同じように世界を見ているかどうかは分からない。共感し合っても、本当に同じかどうかは確かめようがない。

 

この世界には、さまざまな方向から、さまざまな形で、このような問いに光を当てる人たちがいる。もしかすると、世界の成り立ちを知り尽くすようなスゴイ人も、どこかに存在するのかもしれない。ラッコはまだその入り口に立ったばかりで、入り口に立てているのかどうかもアヤシイが、生きている間に、何かそういう謎のひとつでも知れたら面白いだろうと思っている。

 

本日の一品 『 新・ハトホルの書 』

別の銀河系どころか、別の宇宙や別の次元の存在のお話。何を信じ、何を採用するのか。それによって、自分の世界の全体像が変わってくるとラッコは思っている。そういう意味では、世界はひとつに見えて、人の数だけありそうで、とても興味深い。